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通路にごみがひとつもなく大変驚きました」「大変きれいにご利用いただき感激した」―。こんな文面の一通の封書が1月下旬、毛呂山町立川角中学校(毛呂山町川角、生徒数369人)に届いた。差出人は、東京駅で新幹線車両の清掃業務を担当する会社の女性社員。同校の2年生が修学旅行で東海道新幹線を利用した際、生徒らの行き届いた清掃に感激した女性からのお礼だった。大里冶泰校長(54)は「30年間の教師生活で初めて。当たり前のことをやって、それを認めてくれる人がいることに感謝の気持ちでいっぱいです」と話している。(埼玉新聞) 和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。 びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。 台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。 午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。 灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変なことが起こらなければいいが」 灯台守は胸騒ぎした。 しかし、風と岩に打ちつける波の音以外は、 もう、何も聞こえなかった。 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。 全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。 あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。 ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。 この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員全員が海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。 真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。 一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。 「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようだった。「お母さん」という自分の声で意識がもどった。 真っ暗な中で灯台の光が見えた。 「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。 四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。 灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。 顔から血が流れ全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。 灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。 「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。 「あなたのお国はどこですか」「・・・・・・」言葉が通じなかった。 それで「万国信号音」を見せて、初めて、この人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。 また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。 「この乗組員たちを救うには人手が要る」傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。 「樫野の人たちに知らせよう」 灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。 電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。 灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。 この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。 だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。 遠い外国から来て日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。 「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数は動かなかった。 一人の男が叫ぶ。「息があるぞ!」だが、触ってみると、ほとんど体温を感じない。 村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。 「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」 村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。 船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。 助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。 当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。 漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。 ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。 このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。 島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。 だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。 「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう!」 一人の婦人が言う。「にわとりが残っている」 「でも、これを食べてしまったら・・・・・」 「お天とうさまが、守ってくださるよ」 女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。 このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。 明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。 さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。 このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。 次のような後日談がある。イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。 イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」 と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。 日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。 その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。 世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。 日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。 そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。 日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。 タイムリミットの一時間十五分前であった。 なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。 前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は、次のように語られた。 「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。 私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえエルトゥールル号のことを知っています。 今の日本人が知らないだけです。 それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」(引用) 追伸 別の資料によりますと、こんなことも記載されています。 テヘランでソ連のエアロフロート機は自国民を優先し、日本人の搭乗はすべて拒否。オーストリア航空2機とエールフランス機、フルトハンザ機で40余名の日本人が脱出しましたが、なお200人以上日本人が取り残されました。 伊藤忠商事の森永堯(たかし)氏はトルコのオザル首相と親しく、オザル首相に電話を入れます。 「トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか、日本人をトルコ人と同じように扱ってくださいませんか。今日本が頼れる国はトルコしかありません」 トルコに援助を求めたのです。しかし、トルコ人も600名も取り残されていたのです。オザル首相からは次のような返事がきました。 「オーケーだ。すべてアレンジするよ」「われわれは日本人に恩返しをしなければいけないからね」 オザル首相の指示を受けたトルコ航空は救援のパイロットを募ったところ、なんとその場にいた全員のパイロットが手を挙げました。 タイム・リミットは19日午後8時20分。トルコ航空の一番機は午後3時にメヘラバードに到着。198名の日本人を乗せて午後5時10分に離陸しました。二番機は17名の日本人を乗せ、午後7時30分にメヘラバードを離陸し、イスタンブールに到着したのは午後8時20分でした。ギリギリのところで日本人は救われました。 残されたトルコ人たちはトルコ大使館が用意した車に分乗し、陸路でイランを脱出し、トルコへ向かいました。このことでトルコ政府に文句を言ったトルコ人は一人もいなかったといいます。
by atobe-oomurasaki
| 2013-03-02 20:48
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